おうちでしごとするということ

脱サラ後の第2の人生で思うことの綴り

私と自転車とのつきあい

コロナ禍の中、20数年ぶりに自転車に乗ることとなり、あれこれ思い出してみた。

 

初めて自転車に乗ったのは小学4年の頃で、近所の子どもたちより随分と遅かった。我が家にもママチャリ(ミニサイクル)がやってきた。私はママチャリに乗って毎日、新聞配達をした。夕刊だったが雪の降る冬はとてもきつかった。

 

小学6年にセミドロップハンドルの自転車を買ってもらい、同級生たちと大阪の万博公園へはじめてサイクリングに行った。行き先や道順など、私が先導していたような気がする。ドロップハンドルへの交換や、10段変速など自転車の改造も頻繁に行った。

 

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中学に入ってからは、毎月のように大阪から奈良方面などへサイクリングに行った。友人と一緒の場合もあったが、徐々に一人で走るようになってきた。泊りがけのツーリングも経験し、大阪から天橋立、新宮、名古屋などへは1日で走れる脚力もついてきた。

 

近所に世界のパーツや完成車を陳列している自転車屋があり、何も買わずに店内をうろつく迷惑な坊主頭の中学生だったが、高校入学時にあこがれの旅行用自転車(ランドナー)を買ってもらった。一気に自転車熱が沸騰した15歳だった。

 

高校2年の夏休み前に中学から続けていたバスケットボール部を退部し、部長としてサイクリング同好会を作った。この頃から足が太くなり、太もも周り62cm、ヒップ100cm、ズボンはすぐにまたづれで破れ、母にあて布で何度も直してもらった。

 

高校時代は長距離ツーリングを楽しんだ。夏休みに能登半島から信州をソロで走り、卒業時には友人と福岡から佐賀、長崎を走った。耐久走と銘打って、一人で大阪から広島まで350kmを1日で走る試みも成功した。自転車を分解して鉄道に乗る輪行にも慣れてきた。

 

大学に入学してからは、1年生の夏休みに大阪-長野-東京を走った。この時は、寝袋を持参して野宿の旅だった。駅の待合室で寝ることが多かったが、適当な場所がない場合は駅前の歩道橋で寝ることもあった。水は郵便局、洗顔は駅前トイレが便利だった。

 

大学院1年の時、トライアスロンに興味を持った。水泳を練習するため大学を抜け出し、近くの市民プールでクロールを練習した。夏にはトライアスロン大会に出場し完走することができた。父と兄弟が応援に来てくれた。

 

最も印象に残る旅は、沖縄と北海道。北海道では、ミニサイクルで日本一周中の旅人と知床で知り合い、5日間ほど一緒に走った。沖縄は大阪-那覇-石垣のフェリー(片道3日)で往復6日は船上だった。西表島へは小さな船の甲板に自転車をくくりつけて渡った。

 

社会人になってからは、ロードレーサーにも乗りはじめ、琵琶湖1周サイクルマラソンやロードレース大会に参加していた。その後、20代後半にトライアスロンチームに入り、チームの仲間と一緒に練習し、デュアスロントライアスロンなど、たくさんの大会に出た。

 

31歳で結婚し、妻と一緒に自転車を始めようとマウンテンバイクを入手し、二人でオフロードレースに出場した。妻ははじめてのレースで先頭集団を走っていたが、落車してしまった。幸い、大きな怪我にはならなかった。ここで私の自転車三昧は止まった。

 

2020年、コロナ禍の中、運動不足を解消するため、自転車の購入を考えた。20数年ぶりの自転車。ところが、自転車の世界は道具が一変しており、最新情報を頭に入れるのに時間がかかった。そして、しぼんでいた自転車熱がまた湧き上がってきたようで心配だ。

 

購入した自転車はミニヴェロと呼ばれる小径(20インチ)の自転車。スピードは出ないのでポタリング(自転車の散歩)向き。まずは安全第一でヘルメットもかぶり、おだやかにのんびりと年相応に、家の近くのお寺や古墳などをぼちぼち訪ねている。

 

還暦までにチャレンジしたいことがある。これまでに自転車で国内40の都道府県を走破してきたが、残り7県を自転車で走りたいのである。このチャレンジについては、一応、妻の了解を得ているが、一人で行ってね、私は行かないから、と言われている。